iotathetaの雑記や考えたこと

主にスプラトゥーン2がらみのこと

ゲームをするということ、強くなるということ

最近よく思い出すことがある。

僕が高校生の頃、毎晩深夜まで一緒にプレイしていた「大人の人たち」のことだ。

まぁ今でも付き合いがある人はいるが、ごく少数だ。

 

 

あの時の大人はどうやって生活をしていたのか、当時の僕は何も考えていなかった。

伴侶を持って普通に生活をしている人、35歳だか会社の役員をやっているんだと言う人、自衛隊で北海道にいる人、ただの大学生、社会人...ネトゲをしていれば普通に出会う、色々な人がいた。

共通していたのは、みんなそのゲームが好きだった。みんなで一緒にプレイして勝つことが、何よりも好きだった。ただそれだけ。

 

僕の所属していた「チーム」は今思い返しても本当に強くて、練習らしい練習は行っていなくても、所謂対抗戦に出ればほとんどの試合で勝てたし(とはいっても昔のFPSは対抗戦:クラン戦くらいしか実力を図る手段がなかった)、本当の意味でチームに対抗できる相手はごく僅かだった。

 「チーム」の目標は何も無かったように思う。強いて言えば楽しくプレイしましょう、といったレベルだ。

たまにユーザ主催の大会があった、が、そのために事前に意気込んで練習をしたということもない。ただひたすらに毎日何時間も(僕は7時間プレイする余裕があった)プレイして自分の弱点を克服して、味方の動きの癖を補って、相手に正確にAimingして、勝つ。無意識レベルで、夢中になってプレイしていた。気が付けば日本代表として韓国行きの切符を手にしていた。

 

そんなにプレイするには、単純に、何が面白かったのか。

理由も単純だ。皆で同じ目線に立って試合を「する」のが面白かったのだと思う。そこに勝って嬉しい負けて悔しいという感情は無かった。何故なら勝った理由も負けた理由も、話をしなくても全メンバーで共有できたから。なんであのプレイをしたの?なんであのシーンで外したの?なんて会話はほとんど無かった。

ドンマイ、次いこう、だけだ。

注意されないことがストレスフリーなわけではない、むしろ逆だ。自身のミスは報告しなくても、同じルームにいた全員がすぐに「検知」する。それはストレスだ。

そんな訳で、余程でない限り認識の齟齬は起こらない。試合の中では通じ合っている。

だから面白かった。

 

本当の意味で面白かったこそ、「大人」がハマって毎日プレイする。生活を削って。

同じ歳くらいになって、もしくはその歳を通り越して気付いた。

あの頃の「大人の人たち」は「大人としての生活」を犠牲にプレイしていた。

 

どこかの錬金術と同じで、同じ価値のものに対しては、同じ犠牲を伴うという「理由もない理屈」を僕は結構信じている。

少なくとも、ゲームで「強く」なるには、それ相応の「生活の犠牲」が伴うはずだ。

人によって犠牲の数や量は異なるだろうし、犠牲を増やしすぎて生活が崩れたり、最悪の場合は大切な人が離れていくなんてことも、珍しい話ではない。

また、強くなったからといって、自分の人としての徳が上がるわけではない。周りから見て面白くなるわけではない。むしろその逆で、個人的な経験で言えば、強い人は「何かが人と比べておかしい」部分がある。性格もそうだ。でなければストレスに勝てないからかもしれない。

 

いちゲーマーとして1番書いてはいけない言葉かもしれないが、あなたが頑張って強くなりたい!勝ちたい!そう必死になっているそれは、ただの「ゲーム」だ。おもちゃだ。生活に彩りを与えることがあるかもしれないが、便利にすることはない。

さらに書くと、生活の中にはゲーム以外にやるべきことは沢山ある。

とても単純だが目を背けたくなる真実だ。

 

僕がゲームをする理由、eスポーツを微力ながら応援している理由は、僕が生まれてこのかた大好きでほぼ唯一の大切な趣味と言っていいゲームを、心から馬鹿にした「あいつら」に、ゲームってすごいんですね!と証言させるためだ。

それには僕がプレイヤーとして、ストリーマーとして成功したっていい。あるゲームがプレイヤー数が多くなって地上波で放送される、でもいい。どういった形でもいいから、ゲームを有名にしたい。有名にして皆に認知されて欲しい。今でも、僕の住んでいるような田舎ではゲームが趣味です、とは言えない雰囲気が確かにある。

僕の中では、野球もサッカーもバスケットボールも、要はリアル世界でのスポーツも、仮想世界でのゲームも、本質は全く同じだと強く信じている。それは遊びだ。

 

 

色々と書いたが最後に、今までいちプレイヤーとしてゲーマーとして続ける前提で、心の底から大切だと思うのは「何故ゲームをするのか」という理屈を、自分の中で1番強い理由で持っておく事だと思う。

それを崩されない、または崩れない限り、ゲームはいつまでも自身の味方だ。

時には、自分の愛する人よりも心強く感じることもあるだろう。